輪廻転生瞑想法」二つの修行 瞑想

    
輪廻転生瞑想法
 仏さまの教えにしたがって現世を正しく生き、輪廻転生瞑想法を実践するな
らば、おおよそ希望どおりの来世を得られる。だから、どれほどつらいことが
あっても、どれほど苦しくても、決して人を害さず、軽はずみなことをせず
に、現世を一生懸命に生きなければならないのである。
ニつの修行からなりたつ輪廻転生瞑想法
 この「輪廻転生瞑想法」は二つの修行からなりたってぃる。
 その第一は瞑想そのもので、第二の修行は日常の生活のあり方を正しくする
ということである。それぞれについて解説してぃこう。


[一、深層意識をつかう瞑想法]
 わたくしが教える瞑想次第に則って、自分が望む来世の境遇・状況を明確に
強く観想していく。
 どのような家庭に、どのような人間として、どのような能力・素質を持って
生まれていくかという人生の設計図を創り、それをありありと念じるのである。
 人間の意識は表面意識・潜在意識・深層意識の三層に大きく分けることがで
きる。この深層意識の領域に霊魂の宿る揚がある。換言すれば、脳のある部分
に霊魂がおさまっているのである。そして人が臨終を迎えると、霊魂は肉体を
離れて霊的世界へ行き、やがて転生する。
 霊魂は魂塊ともいう。魂とは霊魂全体を、院はその核をさす。鶏卵にたとえ
るならば、卵全体が魂になり、黄身が塊にあたる。この院の中に、その人のあ
らゆる記憶が詰まっている。それは現在の人生における経験だけではなく、前
世、前々世、三世前、四世前、五世前……というような、これまでのすべての
過去世における記憶が残されているのである。
 いや、人間としての記憶だけではなく、さらには生命の進化の記憶も保存さ
れている。

人は前世の記憶を持つ ヘッケルの生物発生法則
 一八六六年、ドイツの自然学者であり、生物学者であったヘッケル(Emst
Heinrich HaeckeDが、こういう理論を発表した。
 「生物の個体発生はその系統発生をくり返す」
 という有名な生物発生法則である。
 これは、生物の個体発生は、系統発生のあとをたどるというものである。
 この法則によると、人間は、人間の発生当時から現在の自分にいたるまでの
形態を、母胎において、つぎつぎとくり返していくのである。つまり、それま
での自分の歴史をたどるわけである。
 まず、この世界における生命の発生は、原始海洋における一匹の微小なア
メーバの誕生からはじまる。そのアメーバは、たぶん、オパーリンのいうよう
に、コアセルベーションによって形成されたのであろうが、それがしだいに進
化していって、原生動物から、魚、イモリ、カメ、ウサギ、サル、というよう
に変化してきたわけである。
 現代における人間の発生も、そのもっとも最初は、アメーバとまったく変わ
らぬ形態をした一匹の精虫である。母胎内の胎液(羊水)は、原始海洋の成分と
同様であり、そこで一匹の精虫は、原始の海で成長をはじめたアメーバのよう
にたくましく成長をはじめる。
 三、四週間たつと、それは、明らかに魚のかたちに進化している。つまり、魚
の時代に入ったのだ。その尾は魚のような平たい尾を持っており、のどにはエ
ラの穴のような四対のさけ目が生じ、血管もまた魚のとおりに配置されてい
る。心臓も、現在のわれわれが持っているような、左右両室に分かれた上等の
ものではなく、魚とおなじような単ポンプ式のものである。
 二ヵ月だつと、エラも、心臓も、尾も、すっかりなくなって、哺乳類のもの
に変わってくる。いよいよ哺乳類の時代に進化してきたわけである。この時期
には、ヒトも、牛も、犬も、豚も、区別がつかないほどよく似ている。
 六ヵ月たって、サルとおなじになってきて、足など、サルのようにものをつ
かみやすい構造になっている。が、これも間もなく変化して、ヒトの足のかた


ちになってくる。
 そして七ヵ月のなかばごろから、ビトはヒト独白の形態を示してきて、ヒト
に最も近いサルともはっきりちがったかたちをあらわしてくる。原始人ではあ
ろうけれども、はっきりヒトの段階に入ったわけである。
 このように、人間は、十ヵ月の胎児時代に、人間発生以来の歴史、それはお
よそ十億年くらいであろうと推定されるのであるが、その長い歴史をくり返す
わけである。
 以上、ヘッケルは、このことを、生物学的・解剖学的に立証した。
 つまり、人間の胎児は、母胎内において、過去の進化のあとを、そのままの
形態の上でたどるということである。そうして、ヘッケルは、生物学者という
立場からであろうが、それ以上には進まなかった。すなわち、胎児は形態の上
で歴史をくり返すというだけで、胎児の意識の面にはまったく2  れなかったの
だ。
胎児は十億年の記憶を持つ
 けれども、胎児は母胎内において、まったく石ころのようになんの意識も持
たないで過ごすなどということは考えられないことではないか。
わたくしは、ヘッケルのこの説の上に立って、胎児は、その形態だけ過去の
歴史をくり返すのではなく、その形態に応じて、過去の歴史をその意識の上で
ちくり返すものと考えるのである。
 胎児は、当然、胎児としての意識を持つであろう。意識を持っているなら
ば、そのときの形態に応じた意識を持つのが当然である。すなわち、魚とおな
じ形態をしているとき、胎児は魚の時代であったときの意識を持ち、サルとお
なじ形態を示しているとき、胎児は、サルの時代であったときの意識をたどっ
ているわけである。
 ところで、記憶とはなにかというと、過去の経験意識の蓄積である。
 そのように意識が逆行して発生展開のあとをたどっていくということは、要
するに、経験意識をくり返しているということにほかならず、それは結局、過
イモリ  亀
一ヵ月目
二ヵ月目
三ヵ月目
去の記憶をたどっているという
ことであり、過去を経験してい
るということではないか。
 つまり、胎児は、アメーバの
時代からヒトにいたるまでの進
化のあとを、十ヵ月の間に全部
経験しているわけである。
 母胎内における生命のこの経
験は、その生命が、太古の昔か
ら現在まで生きつづけていると
いうこととまったくひとしいの
ではないか。
 なぜならば、母胎内において
過去の経験を意識するというこ
とは、それが、母胎内においてでも、あるいは母胎外においてでも、経験意識
の上においては変わりないのであって、その胎児は、経験意識の上において
十億年生きてきた記憶を持つのである。
 そして、十億年生きてきた記憶を持つということは、十億年生きてきたこと
とおなじではないか。

 その進化の過程におけるすべての記憶が、霊魂の中に詰まっている。要する
に、アメーバの時代をはじめ魚、ワニ、ウマ、サルの時代の記憶までもが塊に
刻み込まれているのである。
 人間の脳の中にそれらの記憶が残っているからこそ、人類は現在のような文
明文化を築くことができたのである。人間の進化と転生の記憶こそが文明文化
の原動力になっている、とわたくしは確信している。輪廻転生瞑想法では、そ
の生命の全記憶が記録されている深層意識をつかう。深層意識において、
 「自分は、このような境遇の、こういう能力を待った人間として生まれ変わ亘
 と強く念じて瞑想するのである。深層意識をもちいる瞑想であるから、過去
世の記憶がよみがえることもあるかもしれない。
 この瞑想修行はじつに衝撃的な内容である。死の実態に迫る瞑想であるか
ら、自分が死ぬときの情景が頭に浮かぶこともありうる。生と死は表裏一体で
あるから、死の実態を理解してこそ、生まれることの実態もわかる。したがっ
て、輪廻転生瞑想法は人間に究極の悟りをもたらす瞑想だといえるかもしれな
い。

【二、日常の生活のあり方を正しくする】
貪・隋・痰をなくす
 人間はだれもが貪・瞑・癈という三つの煩悩を持っている。
 これらは人間を毒する心なので、三毒という。三毒はいねば獣の心なので、
わたくしはこれを三獣心とよんでいる。よい来世を迎えるには瞑想をおこなう
と同時に、日常生活で三毒を絶対に出さないように努めなければならない。貪
は貪り、瞑は怒り、痴は愚癈ともいうが、愚かさのことである。因縁因果の道
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輪廻転生瞑想法I !24
理を知らない愚かでたわけた心を愚癈という。
 貪りに貪りを重ねることは、人間としての本道ではない。財物、地位、名誉
などを求めてやまない人もいるが、いくら欲しいと願っても、それが手に入る
だけの徳分がなければ、自分のものにはならない。種をまき、それを大事に育
てることによって花が咲き、果実が実るのである。努力もせず、才能も磨か
ず、徳も積まずに、ただ結果だけ得ようとするのは、まさしく貪りである。
 怒りも人間的に立派な行為とはいえない。なにか不快なことがあって立腹す
るわけであるが、不快なことが起きるには、自分にもなんらかの落ち度がある
はずである。それなのに反省ひとっせず、ただ怒りにまかせて怒鳴ったり、暴
力を振るうというのは人間として恥ずべき行為である。
 そう考えていくと貪も瞑も、因縁因果の道理を知らない愚かさ、つまり愚癈
にもとづいていることがわかる。
 愚擬というのはいちばん愚かな心であって、因縁因果の道理を知らない。仏
教では、これをたわけ心といっている。たわけたバカが因縁因果の道理を知ら
ないのである。
 子母滓寛(一八九二~一九六八)という小説家が『愛猿記』という本を書いてい
る。かわいがっていた猿の日常などを書いた本であるが、その中にこういうこ
とが書いてある。
 あるとき、子母鐸氏が猿の頭を棒で叩いたところ、猿は怒って、その棒を
ひったくって、その棒をぽんぽんと踏んだり、蹴ったりかじったりしたという
のである。
 つまり、子母憚氏が棒でもって猿を叩いたのであるが、猿は叩いた子母滓氏
ではなく、自分を叩いた棒が悪いと思って、棒をひったくって、それをかじっ
たりなんかする。それが畜生の浅ましさだということを子母渾氏は書いている
のである。
 人間だったら、その棒をかじったりなんかしない。その棒をひったくって、
子母渾氏を叩くであろう。しかし猿はそういうことは考えない。だれが原因か
ということまではわからないのである。
輪廻転生瞑想法1 126
 つまり、猿は因果の道理をわからないということを子母鐸氏が書いているの
である。わたくしはこれを非常におもしろいと思う。
 猿がその棒をひったくって子母渾氏を殴ったら、これは人間である。どこま
でも棒が悪いと思ってしまう。そこが畜生の浅ましさなのである。
 以上が、貪・瞑・癈の三毒である。この三毒を出して日常生活を送ってい
て、よい来世を迎えることなどできるわけがない。
 現世でのよい生き方の延長線上によい来世があり、勝手放題な生き方の延長
線上に不幸な来世がある。したがって幸福な来世を迎えたかったならば、現世
で三毒を離れ、善行を積み、よい人間として生き抜くことが肝要である。
 その上で「輪廻転生瞑想法」を実践するならば、自分の思いどおりの来世が
得られる。しかし、たとえ瞑想法を実践していたとしても、日々の生活で三毒
を出しっぱなしにしていては、決してよい転生などできない。だから貪・賦・
癈を離れるように日ごろから心がけなさい。

日に三度笑う
 そして、日課として、一目に三回声をあげて笑うこと。
 アハハハハと笑うこと。
 できたら鏡を見て笑うこと。
 さきほど三毒はいわば獣の心であるとのべたが、獣は笑うということを知ら
ない。笑うということは人間しかできないのである。
 あなたは飼っている犬や猫が笑っているところを見たことがあるだろうか?
 鏡を見て、アハハハハなんて笑っている犬や猫はいない。だから、人間が人
間であるためには鏡を見て笑う。
 一目に三回は、アハハハハと声をあげて鏡を見て笑うことを、かならず実践
していただきたいのである